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2009年05月17日

もう〜すごい!

。。。。もうすごいの一言につきる。4時間にもおよぶCyberMatrixの2周年記念での、DJ HEROINさんのLive DJ。
へろさんもすごいけど。。エルちゃんも4時間、おしっこにも行かずズ〜〜ト釘ずけになったまま、SSも2枚くらいしか撮らなかったのです。1秒でも離れたくない感じだったなあ〜〜。音きれいし、すばらしいです。;; もうべた惚れです。

*5月20日にi tunes storeでDj Heroinさんのアルバム配信されるそうです。

もう〜すごい!

BLUE SEED .................CYBERMATRIX
http://secondlife.com/tochigi%20japan%20/142,103,2001



。。。。。。。。でちょっと長いけど。。これも載せときます。

    そして狂ったように踊るがいい

Osho,遊び心について話していただけますか? 
 私がお願いするのは、私の中に、
 もう長いこと無視してきた美しい小さな男の子がいるからです。
 この小さな男の子は遊び好きで、好奇心に満ち、歓喜に満ちています——
 けれども私はたいてい、彼が自制心を失うのを許しません。
 どうかコメントしてください。


 遊び心とは、人間の内側でもっとも抑圧されたもののひとつだ。
 あらゆる社会、文化、文明が遊び心に反対してきたのは、
 遊び好きの人間はけっして深刻にならないからだ。
 そして人は深刻にならない限り、支配されることはあり得えず、
 野心をもたせることはできず、
 彼に権力、金、地位を求めさせることはできない。

 どんな人の内側でも、けっして子どもは死なない。
 大人になればその子が死ぬというのではなく、
 その子どもはそのまま残っている。
 かつてあなたであった存在は、今でもことごとくあなたの中にいて、
 そして最後に息を引き取るまで、あなたの中に残っている。

 だが社会はつねに、深刻でない人びとを恐れる。
 深刻でない人びとは、金や政治権力に対する野心をもつことはない。
 彼らはむしろ存在を楽しむ。
 だが存在を楽しむことが地位をもたらすことはあり得ない。
 人を権力者にすることはあり得えず、
 その人のエゴを満たすことはあり得えない。
 ところが、人間の世界全体はエゴという観念のまわりを回っている。
 遊び心は、エゴに反する——試してみれば気がつくはずだ。

 ちょっと子どもと遊んでみれば、
 自分のエゴが消えていくのが分かるはずだ。
 自分が再び、子どもになっているのが分かるだろう。
 それはあなたについてだけでなく、誰についても言えることだ。

 自分の中の子どもを抑圧してきたために、
 人は自分の子どもを抑圧することになる。
 自分の子どもが踊ったり、歌ったり、叫んだり、
 飛びはねたりするのを許す者はいない。
 ほんの些細な理由で、——多分、なにかが壊れるかもしれないとか、
 外に飛び出したら雨で服が濡れるというような——
 そんな小さなことのために大いなる霊的資質、遊び心が完全に破壊される。

 従順な子どもは、両親にも、教師にも、誰にも褒められる。
 そしていたずらっ子は非難される。
 その子の遊び心は、まったくなんの害もないかもしれないが、
 そこに反逆の危険があるという理由で、その子は非難される。
 もし子どもが、遊ぶための完全な自由をもって成長しつづけたら、
 その子は反逆者になるだろう。
 彼は簡単には隷属させられない。
 彼は、人を殺すため、あるいは自分が殺されるために、
 たやすく軍隊に入れられはしない。

 反逆的な子どもは、反逆的な若者になる。
 そうなったら、彼に結婚を強制することはできない。
 彼に特定の職業を押しつけることはできない。
 そうなったら、両親の満たされなかった欲望と憧れを成就するように、
 その子を強制するわけにはいかない。
 反逆的な若者は、自分自身の道を進む。
 彼は自らの内奥の願望に従って自分の生を生きることになる——
 ほかの誰の理想に合わせるのでもなく。

 反逆者は、基本的に自然だ。
 従順な子どもは、死んでいるも同然だ。
 それゆえ、両親はひじょうに幸せだ。
 その子がつねに支配下にあるからだ。

 人間は不思議な病にかかっている。
 人間は他人を支配したい——
 他人を支配することで、自分のエゴが満たされる、
 自分が特別な者になれる——
 そして、自分自身もまた他人に支配されたい。
 支配されれば、もう自分に責任はないからだ。
 
 これらすべての理由のために、
 遊び心は、最初の最初から窒息させられ、押しつぶされる。

 あなたはこうたずねている、
 「私の中に、もう長いこと無視してきた美しい小さな男の子がいます。
  この小さな男の子は遊び好きで、好奇心に満ち、歓喜に満ちています——
  けれども、私はたいてい彼が自制心を失うのを許しません」と。
 その恐怖はなんだろう? 
 その恐怖は他人によって植えつけられたものだ。
 つねに制御の下にとどまるように、つねに規律の下にとどまるように、
 つねに年上の者を尊敬するように、と。
 つねに聖職者の、両親の、教師たちの言うことに従うように——
 彼らがあなたにとってなにが正しいのかを知っている、と。
 あなたの本質は、けっしてその本音を言うことを許されない。

 ゆっくり、ゆっくりと、あなたは自分の中に死んだ子どもを運びはじめる。
 このあなたの中の死んだ子どもが、
 あなたの中のユーモアのセンスを破壊する。
 あなたは心から笑うことができない、あなたは遊べない、
 あなたは人生の小さなことを楽しむことができない。
 あまりにも深刻になるために、
 あなたの人生は広がるどころか、むしろ縮小しはじめる。

 私はいつも、なぜキリスト教が世界最大の宗教になったのか
 不思議に思ってきた。
 そして再三再四、それは十字架と磔にされたイエスのためだ、
 という結論に達した——
 あんなにも悲しげで、あんなにも深刻そうだ……
 当然のことだが、
 十字架上に微笑んでいるイエスを期待するわけにはいかない。
 そして無数の人びとが、
 自分と十字架上のイエスの間に類似性を見いだしたのだ。

 その深刻さ、その悲しさこそ、
 キリスト教がほかのどの宗教よりも大きく広がった理由だった。
 私は、私たちの教会が、寺院が、モスクが、シナゴーグが、
 深刻でない、もっと遊びに満ちた、
 笑いと喜びに満ちたものになってほしい。
 それは人類にもっと健康で、完全で、
 統合した魂をもたらすことになるはずだ。

 だがここではあなたたちは……。
 少なくとも私のサニヤシンであることで、
 あなたたちは肩に十字架を担ぐ必要はない。
 十字架を捨てなさい。
 私はあなたに踊ることを、歌うことを、遊ぶことを教える。
 生は、一瞬一瞬が貴重な創造性であるべきだ。
 なにを創造するかは問題ではない——
 それは海辺の砂の城であってもいい——
 だがあなたがなにをするにせよ、
 それはあなたの遊び心と喜びから出てくるべきだ。

 あなたの子どもをけっして死なせるべきではない。
 その子に栄養を与え、
 そしてその子が統制から飛び出すことを恐れてはいけない。
 その子がどこに行けると言うのかね? 
 そしてたとえ、その子が飛び出したとして——だからどうだと言うのか? 
 制御を飛び出したらあなたになにができるだろう? 
 あなたは狂人のように踊ることができる。
 狂人のように笑うことができる。
 あなたは狂人のように飛び跳ね、走ることができる……
 人はあなたが狂ったと思うだろうが、それは彼らの問題だ。
 もしあなたがそれを楽しんでいるのなら、
 もしあなたの生が、それによって栄養を得ているなら、
 それが残りの全世界にとって問題になろうとかまわない。
 […]

 もしあなたがここで自分の遊び心を許せなかったら、
 世界中どこに行ってもそれはできないだろう。
 遊び心を全面的に許しなさい。
 それを統制から出してやりなさい——
 
 そしていったん、あなたの子どもが
 ほんとうに生き生きとしてあなたといっしょに踊りはじめたら、
 それはあなたの生の香りそのものを変えることになる。

 それはあなたにユーモアのセンスを、素晴らしい笑いを与える。
 そしてあなたの頭でっかちを壊してくれる。
 それは、あなたをハートの人間にするだろう。

 頭のなかに住んでいる人間は、まったく生きてはいない。
 ハートに生きる人間だけが、そして頭には理解できない歌を歌う者、
 外側の状況とはどう見てもつり合わないダンスを踊る者……
 自分の豊かさから、
 自分があふれているからこそ踊る者だけが、生きているのだ。
 
 あなたには歌い、そして叫びたいほどのエネルギーがある……
 だったら、そうしなさい!

 そうしたら、あなたはもっと生き生きする。
 それはあなたに、生のなんたるかを味わう機会を与える。
 深刻な人間は、死ぬ前から死んでいる。
 死ぬずっと前に、彼はほとんど死体になっている。

 生はあまりにも貴重な機会だ。
 深刻さの中にそれを失うべきではない。
 深刻さは、墓場用にとっておくといい。
 深刻さは、墓場の中に倒れ込ませたらいい。
 最後の審判の日を待たせて、深刻にさせておけばいい。
 だが墓場に行く前に死体になることはない。

 孔子のことを思い出した。
 孔子の弟子のひとりが、無数の人びとが問うた典型的な質問をした。
 「死んだ後で起こることについて、なにか言っていただけますか?」

 孔子は、
 「そういうことは死んで墓場に行ってからじっくり考えたらいい。
  今はまず生きなさい!」と言った。
 生きるべきときがあり、そして死ぬべきときがある。
 それをごっちゃにしてはいけない。
 さもなければ両方とも取り逃がす。
 
 今はまず、全身全霊で強烈に生きなさい。
 そして死ぬときが来たら、全身全霊で死ぬといい。
 半身で死んではいけない。
 片目だけ死んで、もう片目で辺りを見つづけていたり、
 片手が死んで、もう片手で真理を探しつづけていたりしてはいけない。
 死ぬときは全面的に死になさい……
 そして死とはなにかをじっくり考えたらいい。
 だが今はまず、ずっと先のことを考えて時間を潰すのはやめなさい。
 この瞬間を生きるのだ。

 子どもは強烈に、また全面的に生きることを知っている。
 そして恐れることなく、統制から抜け出すことを——。

 この寺院の中ではいかなる禁止もなく、
 あなたは自分自身であることを許されている。
 私は世界中にこれが起こってほしい。
 これはほんの始まりにすぎない。
 ここで、一瞬一瞬を全身全霊で、強烈に、喜びに満ちて、
 そして遊び心をもって生きることを、始めなさい——
 そうすれば、なにひとつ羽目が外れたりはしないことが分かるだろう。
 あなたの聡明さはより研ぎすまされ、あなたはより若くなり、
 愛がより深まることが分かるはずだ。
 
 そして世間に出たら、あなたがどこへ行こうと、
 生を、遊び心を、喜びを、できるだけ遠くまで広げなさい——
 この地球の隅から隅まで。

 もし全世界が笑い、楽しみ、遊びはじめたら、大いなる革命が起こる。
 戦争は、深刻な人びとがつくり出すものだ。
 殺人は、深刻な人びとが犯すものだ。
 自殺は、深刻な人びとがするものだ——
 精神病院は、深刻な人びとでいっぱいになっている。
 深刻さが人間にどれほどの害をなしたかを見てとったら、
 あなたは自分の深刻さから飛び出すはずだ。
 そしてあなたは、あなたの中で遊ぼうと、
 歌って踊ろうと待ちかまえている、自分の子どもを許すだろう。

 私の宗教のすべては、遊び心で成り立っている。
 この存在は、私たちの故郷だ。
 これらの樹々、そして星々は、私たちの兄弟であり、姉妹だ。
 これらの海や川や山は、私たちの友人だ。
 この途方もなく親しげな宇宙のなかで、
 あなたたちは石仏のように坐っている——
 私は、石仏になることは説かない。
 私は、あなたたちに踊るブッダになってほしい。

 仏陀に従う者たちには気に入らないだろうが、
 しかし私は、誰がなにを考えようとかまわない。
 私が気にするのは真理だけだ。
 もし真理が踊り方を知らないとしたら、それは片輪になっている。
 もしブッダが笑う能力をもたないとしたらなにかが欠けている。
 もしブッダが子どもたちの仲間になっていっしょに遊べないとしたら、
 その人はブッダフッドの近くには来ていても、
 まだ全面的に覚醒してはいない。
 なにかが眠っている。

 日本には9枚つづきの絵があって、その絵には途方もなく深い意味がある。
 1枚目の絵のなかで、ひとりの男が自分の牛を見失う。
 彼は、あたりを探し回っている——
 そこは木立に囲まれた深い森だ……だが牛は影も形もない。
 
 2枚目で彼は牛の足跡を見つける。
 
 3枚目では牛はどうやら木の蔭に姿を隠しているらしい。
 牛の尻の部分だけが見えている。
 
 4枚目で、彼はほとんど牛に手が届きそうになる。
 そして牛は全身をあらわしている。
 
 5枚目で、彼は牛の角を捕らえる。
 
 6枚目で、彼は牛と格闘する。
 
 7枚目で、彼は牛を征服する。
 彼は牛の背に坐っている。
 
 8枚目では、彼らは家に向かっている。
 
 9枚目では、牛は牛舎に入り、男は笛を吹いている。
 
 これらの9枚の絵は1枚を欠いている——
 それらは中国から来たものだ。
 が中国のものには、10枚の絵がある。
 それが日本にもたらされたとき、10枚目が捨てられた。
 ひどく法外なものに見えたからだ——
 そして、その10番目こそが私のブッダだ。

 その10枚目の絵の中では、牛は牛舎につながれ、
 そのブッダは酒壷を持って町に出ている。
 
 日本人のマインドは、これではあんまりだと思った。
 酒壷を持ったブッダでは、人がどう思うだろう、と。
 これは普通の宗教的マインドにとっては法外だが、
 私に言わせれば、全シリーズでこれこそがもっとも重要な絵だ。
 それがなければこのシリーズは不完全だ。

 ブッダフッドを達成したら、
 そのとき、人はごくあたり前の人間になるはずだ。
 酒壷を持って町に出るというのは象徴的だ。
 それが意味するところは、
 つまり、もう坐って瞑想する必要はないということだ。
 瞑想はすでにハートの中にある。
 今や深刻になる必要はない。
 見つけたかったものは、見つけた。
 今度は、楽しむときだ。
 その酒壷は喜びの象徴だ——今や祝祭のときだ!
 そして、町以外のどこで祝うことができるだろう? 
 瞑想のためなら森のなか、山のなかに入って行けばいいが、
 祝うためには町に出なければならない。
 ディスコを見つけにどこに行くかね……?

 いつでもこの10番目の絵を覚えていなさい。
 9枚目で止まってはいけない——
 9枚目は素晴らしいものではあるが、まだ不完全だ。
 もう一歩がある……、ただ笛を吹くだけではたりない。
 酔っぱらいなさい! 
 そして、狂ったように踊るがいい。

Osho The Rebellious Spirit,#17 より抜粋



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Posted by Lmoth at 06:44│Comments(0)Music
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